是川銀蔵

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 株の世界には、是川銀蔵という人がいました。

 是川銀蔵はまず、中国に渡り、小銭を集める商売をして財産を作りました。

 その過程で出会った「鉱物資源」というテーマを掘り下げてゆき、後に住友金属鉱山の大相場
という鉱脈にたどり着く事になる。

 後、納税額が日本で一番になった人です。

 そう言えば是川銀蔵は、資源の価格の動きから、太平洋戦争の開戦の時期を察知したと
自伝で述べていますね。

 是川銀蔵はは「最後の相場師」として名高い。1992年に95歳で亡くなった。

 彼は晩年こう語っています、

 「わしは金が欲いわけではない、貧乏な家に生れたわしが、どこまで金を使って動せるか、  
  それを試してみたかったのじゃよ」と


 

 是川銀蔵は、

 時代を先読みする鋭い視点、

 日々の新聞記事を丹念に読み考えることで培った論理的な思考

 それらを武器に株式取引を行った相場師です。

 その是川銀蔵(通称是銀)が情報収集で利用した資料は、日経新聞ただ一誌のみだったと言います。

 是銀曰く「丹念に日経新聞を読めばたいがいのことはわかるものだ」と。

 是銀が手がけた住友金属鉱山もまた日経新聞が切欠でした。

 1981年9月18日の日経新聞朝刊に

 「金属鉱業事業団、鹿児島県菱刈金山に高品位金鉱脈を発見 一トン当たり二百二十グラム」
という見出しがあり。

 是銀はこの記事を見た時の事を自伝で、

 「この記事を食い入るように読み込むうちに体内の血がわき上がり、頭はカーッと燃え上がった」
と述べています。

 昔朝鮮半島で鉱山開発に携わった経験のある彼は、一トン当たりの金含有量が十グラムで
採算がとれる鉱山業において、このすごさにいち早く気付き、

 「この鉱脈はとなりの住友鉱山の鉱脈までつながっているはずだ」と確信します。

 時齢84歳でありながら是銀は、その日のうちに鹿児島に飛び、菱刈を視察しています。

 現地を案内してくれた関係者はそれほど大した鉱脈はないと言ったそうですが、

 自らの閃きと直感を確信した是銀は翌日から住友鉱山を買いまくります。

 その後も住友鉱山に話を聞きに何度も足を運びますが、住友側はまだはっきりとしたことは
分からないとの一点張りだったそうです。

 大抵の人達は、会社がまだ分からないといっているのだから、もしかしたら自分の判断が
間違っているのかもしれないと思い。

 株を買ったのは誤りだったかもしれないと思うところでしょうが、

 彼は自分の直感を信じ買い続けて行きます。

 当初200円台の株価は、その後、他の投資家も参戦し5カ月あまりで1000円の大台を
突き抜けさらに上伸した。

 その間、是銀は1500万株とも5000万株ともいわれるいう膨大な買い付けを行います。

 当時、証券会社からは目標株価3000円との話も聞かれましたが、
「買いは悠然、売りは迅速」を心がける是銀は1000円台に乗せた後わずか十日間で全株を処分し、

 その時は数百億円の巨利を得たといいます。同和鉱業もやっていますよね確か。


 是銀は自著「波乱を生きる」の中に、信条ともいえる以下の三則を残しています。

 ・銘柄は水面下にある優良なものを選んでじっと待つ

 ・経済、相場の動きから常に目を離さず自分で勉強する

 ・過大な思惑はせず、手持ち資金の中で行動する

  
 是銀「投資五条」

 1.銘柄は人が薦めるものではなく自分で勉強して 学ぶ

 2.二年後の経済の変化を自分で予測し大局観をもつ 

 3.株価には妥当な水準がある値上株の深追は禁物 

 4.株価は最終的に業績で決きまる。腕力相場は敬遠する 

 5.不測の事態などリスクはつきものと心得る。

是川銀蔵著「相場師一代」より
 


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