公共政策

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 日本では、個人政策が公共政策に等しい。

 
 米国には多くの公共政策(Public Policy)大学院があります。

 そして日本にはほとんどありません。

 最近、米国を真似て幾つか出てきたようです。

 ですが、公共政策というのは米国だからこそ価値がある学問なのだと思う。

 個人が極大化している米国の社会では、個人が公共について無理やりにでも考える必要がある。

 そして、多様なクラスの人がいて、多様な人種が混在している米国では、

 公共についてコンセンサスを醸成していくには論理しかないのだろう。

 だからこそ公共政策という学問が、社会秩序を維持していくうえで必要となる。

 それでは、日本はどうか?

 よく聞きますが米国とは正反対で、個人がない。と、

 そして下手すれば公共が肥大化してしまう

 社会的なコンセンサスは論理ではなく人間関係(情緒)で醸成されていく。

 では、論理型と情緒型の公共政策では、何か違うのか?どちらが良い社会を構築できるのか?

 多くの意見では、論理型公共政策の方がより良い社会を構築できると考えてしまうようですが、

 よく考えれば、そうでもない。

 それは結局、どちらもコンセンサスを醸成するためのプロセスでしかなくて

 結果については何も保証していないからです。

 それならば、ただコストが小さい方が良いので、

 日本では、わざわざ公共政策云々を議論することに大きな意味がないのだと思う。

 大体、政策論争なんか誰も関心を示しはしない。
 
 日本に必要なのは、公共政策ではなくて「個人政策」です。

 公共を考えるよりも個人を考えた方がいい。

 「個人とは何のことなのか」を考える機会が日本人の人生にはほとんどない。

 米国の人達が公共について無理やり考える必要があるのと同じで、

 日本人は個人について無理やり考える必要があると思う。

 これにはコストをかける価値がある。

 米国の人達が公共について考えても個人が先行するように、

 日本人がいくら個人について考えても公共が先行する事でしょう。

 バランスが自然にとれるはずです。

 個人に目覚めても公から逃れられない日本人は結局、公共についても真面目に考え、

 行動するでしょう。

 だから日本では、個人政策が公共政策に等しい。

 何事につけても、他国の事を優れている、素晴らしい、正しいなどと鵜呑みにするのではなくて、

 もうちょっと日本人の特性を考えた方がいいんじゃないかと。

 でも、外(世界)を知らない者が自らの特性を考えるなんて出来ないのだろうか。

 難しいね。



追記
 
 日本には調整型の政治家しかいないとはよく聞きます。

 ですが政治家の仕事は調整です。

 ただその調整の仕方が国によって違うだけです。

 例えば米国では、ちょっとしたことを調整するにも論理が必要となるのでしょう。


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